
2026年3月、生前の永瀬清子と深い交流のあったお二人の対話の場を設けることができました!
中桐美和子さん(左 詩人・倉敷市在住)
川口美砂さん(右 広告代理店経営・東京在住)
中桐さんは若い時、清子さんが女性だけで立ち上げた同人誌「黄薔薇」の立ち上げ1か月後という最初期から参加された詩人。近年、半生を語る詩集『九十代』を出版され、2025年度中四国詩人会岡山大会で表彰されています。
中桐さんには現在募集中の「第八回永瀬清子現代詩賞」の作品集(来年2月発行)へのご寄稿をお願いしています。
川口さんは高知室戸の出身で、清子さんに東京でのバイト先も世話をしてもらったというエピソードをお持ちの方。
2024年7月には室戸漁師の死の真相を追うドキュメント「汚名ー放射線を浴びたX年後」を清子の家で上映いただきました。
清子さんが上京された時にはアテンドされるなど交流を重ねられ、『第七回永瀬清子現代詩賞作品集 いつかだれかにわたしの思いを』に思い出を寄稿いただいています。
永瀬清子先生、追想 ー 川口美砂
先生のお名前を初めて知ったのは1981年に出版された谷川俊太郎と六人の女性との対話集『やさしさを教えてほしい』であり、その〝六人の女性〟のなかのひとりが先生だった。そして翌82年、偶然手にとった「クロワッサン」(8月10日・114号)のなかで「女から女へ――ほとばしる詩の意味」と題されたエッセイの著者として〝永瀬清子〟は再び私の前に現れた。
私は漁業の町高知県室戸市で生まれ育ち、26歳になっていた。町に一軒しかない書店で定期的に購読していたのは「現代詩手帖」。自由気ままな詩を書きながらいつか都会に出たいと心の中で模索している毎日だった。そんな私に先生の詩と文章はひとつの啓示となった。私は思い切って先生のご住所に長文の手紙をお送りした(雑誌にご住所が記されてあったのだ)。心の丈を思うがままに吐露した見知らぬ者の便りに先生はさぞ困惑されたことだろう。しかし、時を経ずしてお返事が届いた。私は感激のあまり歓声を上げた。
その後も文通を重ね、私の上京に際しては書店のアルバイト先までお世話してくださった――当時の私とのやり取りは散文集『うぐいすの招き』に記してくださっている。
83年3月6日に上京、翌7日にはアルバイト先へのご挨拶に同行して下さる先生とJR四ツ谷駅外の桜の木の下で待ち合わせた。このときが先生との初めての対面だった。
同じ年の5月の連休には東京生活の報告を兼ねて岡山の先生のもとを訪れた。先生のご主人越夫さん、長女美緒さんは見知らぬ他人が一泊するのを気にされたようだったが、お二人とも私の物怖じせぬ性格を面白がられたということをあとで先生にうかがい、自分の身の程知らずに恥じ入る思いをしたものだ。
せっかく先生から頂いた職場だったが、体調不良のため、当初の約束であった一年間の勤務期間をまっとうできず、四ツ谷の書店を辞めることになった。先生の顔を潰すことになってしまった私は事情を詳しく説明したお手紙をお送りした。このときも先生は不埒な私に日を置かずお返事をお送り下さるとともに、私の体調を気遣われたうえ、封筒の中には「お見舞い」の現金まで添えて下さった。先生の寛容さと優しさに涙がとまらなかった。
その後も先生とは連絡を取り合い、83年から94年まで、先生の上京のたびごとに移動の際の介添え役をさせていただいた。東京での印象深い記憶は九一年の春、保谷市(現・西東京市)のご親戚のお宅にお迎えに行き、お茶の水のカフェ「レモン」でご長男春来さんとご一緒させていただいたことだ。そこから東京駅までのタクシー移動の途中、皇居前の桜並木を眺めながら「来年もこの桜を見られるかなぁ」とつぶやいた先生に、運転手さんが「見られますとも」と声をかけた。「そうであってほしいわ」と先生は嬉しそうに微笑まれた。そのときの先生の笑顔がいまでも昨日のように私のまぶたに残っている。
先生から頂いたお手紙の束は私だけの大切な一冊の詩集となっている。先生にとって人に上下はなかった。公平無私の精神で、小さき者、弱き者に手を差し伸べて下さった。私はいまでもその手のぬくもりを感じている。
『第七回永瀬清子現代詩賞作品集ーいつかだれかにわたしの思いを』より
(本誌には当時の清子さんと川口さんの写真を掲載)
