詩の箱


<今月の詩>

オリンピック 

 

  永瀬清子

 

記録の中に勝ちとる孤独

記録の中にかぎりない失墜

 

段々をのぼっていって点火した時

いぶりはじめた犠牲の心臓

 

季節はいまや沸騰して

ルールはタイムウオッチにきざまれる。

 

旗は空の碧瑠璃の中に

赤黃緑の祖国の夢を描きつづけ

 

さびしいさびしい故国の高原の風が

黒檀色のふくらはぎにまきつく。

 

勝つのは一人だけ、あとは負けのための

祭りの中の屠殺場、その巨大なコロッセウム

 

吐きだしの精神のきわまった時

追いつめの舌とともにゴール

 

勝つための喝采と

負へのあくたいの等価値

 

選手には顔がない自意識もない

ただ力こぶと腱で吊りあげるメダル

 

花火は空に瞬間留められ

打ちふるハンケチは汗の匂いの靄をつくるが

 

時は忽ち過ぎて花と実は同時に地に散らばり

チャスラフスカの青春は今終わった。

 


この「オリンピック」は、1979年 思潮社より発行された「永瀬清子詩集」に収録されています。

 その詩集の栞文に、谷川俊太郎氏が永瀬について書いておられますので、最後の部分を紹介します。


 

 ひとりの日本の女      谷川俊太郎

 

__すぐれた作品は個性として生きてゐる。生きてゐる故に性別をもってゐる。__

 

永瀬さんは自身がそう言い当てているのだ。永瀬さんの作品に現れてくる性はきわめて現実的であり、それ故に多義的だ。その詩は二十世紀の日本を生きるひとりの女の証言として読むこともできるが、そのとき私たちは時代とともに永遠を垣間見ざるを得ぬだろうし、希望とともに永瀬さんの諦念をも読みとらざる得ないのだ。だが、永瀬さんにはまた、こんなすばらしい発言がある。

詩は先ず身を挺してゆく。

しぶきのあがる所に詩は生まれる。

 

生きることにおいても書くことにおいても、永瀬さんは身を挺してきたと思う。永瀬さんの詩の力はそこからくる。それは永瀬さんの生命力そのものだ。その生命力は読む者の体と心のもっと奥深いところに働きかける。『グレンデルの母親』から半世紀をへたいま、たとえ永瀬さんが老いを歌うにしても、そのことは変わっていない。