詩人永瀬清子とは
(1906年~1995年)
生涯詩人であり続け、世間の人であり続けた清子の詩からは、誰もが尊重され何者にも束縛されず、自分の人生を全うできる世の中であってほしいと願う気持ちが溢れています。
農村に生き、農業に携わる生活者としての言葉を紡ぎ、「私」の中に多くの女性を重ねている。
壮年期
昭和20年11月(39才)
出征していた夫が復員し、熊山の生家へ帰る。元は地主の分家であったが、農地改革でわずかに残された田畑で初めての農業をしながら、ニ男ニ女を育て、多くの優れた詩を世に出した。
昭和24年(43才)
第一回岡山県文学賞受賞。ハンセン病患者の隔離施設のあった長島(岡山県瀬戸内市邑久町)へ、まだ世間の偏見が色濃く残る頃から40年間詩作の指導に通い続けそうした者でなければ書き得ない「癩について」を遺した。
昭和27年(46才)
同人詩誌「黄薔薇」を創刊(現在も縁深い詩人たちの手により発行されている)
昭和30年(49竿)
インド.ニューデリーで開かれたアジア諸国民会議に熊山町婦人会長の肩書で、婦人代表として出席。
昭和33年(52才)
「女の新聞」創刊に参加。岡山県詩人協会が発足し、初代会長となる。
昭和38年(57才)
岡山県庁内の世界連邦岡山県協議会事務局に勤務。
写真提供:赤磐市教育委員会